訪れたのは、横浜の高台にあるヴィンテージマンション。坂の途中にはポルシェ911が停められていた。「ちょっとひと休みしているだけ」といった面持ちで、今にも駆け出して行きそうだ。
Iさんがアクセルを踏むと乾いたサウンドが響き渡り、6月の青空に舞い上がっていく。「空冷ならではのエンジン音もナローの魅力です」とギアに手をかけながら、ごく控えめに語ってくれた。
「ナローポルシェは、カスタムせずにそのままで」
Iさんが所有するのは、1970年式ポルシェ911。いわゆる1963~73年まで作られた「ナローポルシェ」だ。ゆるやかにカーブするフロント、低いボンネットフードから飛び出した2つのヘッドライトが特徴的。
つなぎ目が少なく一体成型に近い彫刻的なフォルムは、Iさんに深いインスピレーションを与える。1970年当時のカラーをそのまま再現したというスレートグレーのボディ。光の当たり具合で黒にもグリーンにも見える独特の色合いは、極めてノスタルジックだ。エンジンルームを含めてオールペイントしたという。
「シートは張り替えたけれど、それ以外はすべてオリジナルです。内装も当時のままで余計なカスタムはしていません。ナローはそのままで乗りたかったから」
1970年の趣をのそのまま残したポルシェ911と、同じく70年代に建てられたヴィンテージマンション。そのふたつがあまりにも完璧に調和していたので、時が止まったかのような錯覚を覚えた。
はじまりは14年前。ポルシェ911にたどり着くまで
Iさんにとって、911は8台目のポルシェだという。「初めて買ったポルシェはボクスター986のティプトロ。14年前くらいかな。妻も運転しやすいコンパクトなセカンドカーが欲しかったんです。水冷のオープンカーで、箱根とか走らせたら気持ちよかった。でもやっぱり空冷の独特のフィーリング、熟成されたエンジン音に惹かれて、空冷最後のモデル・993に買い替えました」
「水冷」「空冷」とは、車のエンジン冷却性能のこと。2000年以降は生産されなくなったが、空冷ポルシェはヴィンテージカーとしていまだに人気を誇る。
その理由は冒頭でもお伝えした通り、空冷ならではの乾いたエンジンのサウンドにある。
一度はフェラーリF355に乗り換えたこともあるというIさん。しかしやはりポルシェが忘れられず、964ターボ3.6、930スピードスター、997スピードスター、981ボクスタースパイダーを乗り継いだ。やがて引っ越しを機に現在のナローを購入。
「古いんだけど、綺麗にメンテナンスして乗っていた。手放した車たちはいつも『パリッとしてるね』と言われていました。カスタムは痒いところに手がとどく程度。やりすぎないことが大切なんです。当時の佇まいで、今に対応しているのがベスト」
「ただ移動するためなら乗らない。この車の100%で乗りたい」
「911で走る、お気に入りのルートは?」という質問に対し、「朝の首都高。都内の街中。それから箱根の峠も気持ちがいい」という返事が返ってきた。つまりはどこを走っていても心地よい空冷サウンドが鳴り響き、Iさんを楽しませてくれるのだ。
「スピードを上げなくても走ってる感覚があるんですよね。100キロで走っても、それ以上にスピードが出ている感覚がある。昔の車だから小さく、コンピューター制御もなくて、怖いからでしょう。自分の運転ひとつで事故にあうかもしれない。そんなスリルがあります」
街中を走るときに、意識していることがあるという。ポルシェ特有のアイドリングスタートと適切なシフトチェンジ。「趣味の車なので、ただ移動するためなら乗らない。この車の100%で乗りたいんです」
「スタイルを守りつつ、進化し続けていることは尊敬に値する」
生産から半世紀以上経っても、なお魅力を損なわないポルシェ911。とはいえヴィンテージカーのメンテナンスは労力がかかり、クーラーがないため夏場は乗ることができないという。この取材が終わったら、自身の運転で群馬までペイントに行くのだとか。
そんな手間をかけても、ポルシェ911乗りたい理由を聞いてみた。
「無駄を削ぎ落としたフォルム。プロダクト自体が強烈で、こんなデザインのスポーツカーは他にない。それはリアエンジン・リアドライブ(RR)だからできるんですよね。そのスタイルを守りつつ、進化し続けていることは尊敬に値します」
リアエンジン・リアドライブ(RR)とは、エンジンを後輪車軸の後ろ側に搭載する手法。それにより低いボンネットフードが可能で、そこから2つのヘッドライトが立ち上がった姿は、1964年の発売当初からポルシェ911を象徴している。
「絵画のように、いつか誰かに譲り渡すまで」
Iさんが所有するポルシェ911は、1970年に生産されてから数々のオーナーの手に渡ってきた。「僕は4代目か5代目のオーナーです。いつか誰かに譲り渡すときが来るから、その日まで『預かっている』という感覚です。まるで絵画のように」
驚いたことに「これまで生産されたポルシェの70%が現役」という調査結果がある。30年、40年も経てば廃車にするのが普通だが、ポルシェの場合はオーナーがそのまま乗り続けたり、他のオーナーに受け継がれる。
時計や建物ではよくあることだが、車の世界では異例とも言えるだろう。
「機能性とカタチどちらか選ぶなら、カタチ」
「ミッドセンチュリーをモダンに」というコンセプトでリノベーションしたIさんの住まいには、ハンス・J・ウェグナーをはじめとした50~60年代の家具が、ダイナミックな石壁を背景に完璧なバランスでレイアウトされている。
「欲しいものすべて、こうした古いものになってしまいます。それって、デザインに惹かれているからだと思います。機能性とカタチどちらか一つを選ぶとしたら、僕はカタチをとる。マンションも、はじめは中古を買ってリノベーションするつもりはなかった。僕の性格上、こだわりすぎて大変になることはわかっていたから」
「灰皿一つにしても、適当なものを置きたくない」というIさんは、多少の手間と時間がかかっても、リノベーションした自分らしい空間で暮らすことを選んだ。
ヴィンテージマンションに住み、古い家具や時計をコレクションし、ヴィンテージポルシェを颯爽と乗りこなすIさん。自身の揺るぎない美的感覚で構成したライフスタイルを、まるで少年のように楽しんでいる姿が印象的だった。
Iさんがリノベーションしたご自宅の詳細は、こちらからご覧いただけます。